今日は勉強会でナラティブ・セラピーを学ぶ。忘れないうちにメモメモ
ナラティブに関する認識は、今まで持っていたものとほぼ変わりない。何度か日記にも書いているけれど、科学であることも一つのナラティブであると考えるならば、論理実証主義とナラティブとの二項対立を描くのに意味はない。科学性は、現代社会の物語の一つにすぎない。
クライエントの語りに対して脱構築を試みるというアプローチが、aliternative storyを描き出すのは理解できたが、脱構築というアプローチが果たして単なる「意味の無意味性」を暴くだけではなく、「建設的」であるためにはどうしたらよいのだろうか。
例えば「○×で判断するのはよくない」という言説は、「○×で判断すること」をよくないもの、「○×で判断」しないもの(論述など)をよいものと するdiscourseと言えるが、脱構築では「○×で判断すること」がよいか悪いか、すなわち「○×で判断」している点で「○×で判断すること」を棄却 できないとする。自らの言説について、自らの言説によって脱構築しうる。
問うならば、「理論体系に沿わず話を傾聴する」といった姿勢も、「理論体系に沿わない」という理論によって脱構築されるし、「理論がない」というのは「理論」とは言えないのかと問い始めると足場を崩すも、新たなdiscourseとなりうるのか疑問に感じる。
最近流行っている藤原某の「国家の品格」とやらも、ある種ナラティブ・アプローチと言える。歴史に基づく情緒だのなんだのと欧米の論理実証主義と の二項対立や「歴史」という一流の物語、すなわちナラティブを持ち出す点でもは、ナラティブ・アプローチに見られるそれに似通っている。
ただ「歴史」も語られ、作られるという点で、「情緒」というdiscourseにも相対性は持ち込まれる。「純粋な子ども」という discourseは、大正期の童話によって構成されていることを河原 (1998)は示しているし、「家族」というdiscourseは、戦後日本の政策に組み込まれていたことを浅野(1995)はフランスの家庭事情の自由 さを描出することで浮き立たせている。「歴史」が社会構成されることを、吉村(1992)は「出産」をテーマに良質のルポルタージュとして記述している。
このように考えていくと、真にナラティブであろうとすることがナラティブでなくなると言う自己矛盾に陥りはしないだろうか。神の立場に立たない(客観性を求めない)という言説は、自由の固定化を示してはいないだろうか。
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